「赤い靴公園」は雪に覆われていた。北海道留寿都村の村役場そばだ。一角に立つ「母思像」は、吹き付ける雪が次々に凍って巨大な雪だるまになり、顔だけがちょこんと出ている。不思議な自然のモニュメントだ。札幌から車で2時間半ほど。明治の開拓地があった所だという。ここになぜ「赤い靴」の少女がいるのか?
「あの女の子は私の姉でした」という新聞の投書をもとに、北海道テレビがドキュメンタリー番組にし、本も出版。「赤い靴」の少女は実在したと大きな反響を呼んだのは、79年のことだった。
少女の名は岩崎きみ。静岡県不二見村(現清水市)に生まれた。母親はかよ、未婚の母だった。2年後に母子は北海道函館市に移り住む。やがて後の夫とともに、洞爺湖北方の原野、今の留寿都村に入植するが、過酷な地に幼い子は連れて行けない。やむなく札幌の米国人宣教師夫妻にきみを託す。
開拓は失敗し、かよの夫は札幌の新聞社に勤める。同僚に野口雨情がいた。かよの話を聞いた雨情は、後に「赤い靴」を書き、本居長世が作曲した。
♪ 横浜の はとばから ふねにのって 異人さんに つれられて いっちゃった
ところが、きみは船に乗っていなかった。宣教師夫妻と暮らすうちに、結核にかかってしまう。そこへ、帰国命令がきた。きみの体は、長い船旅には耐えられない。夫妻は、東京・麻布十番にあった教会の孤児院に預けた。きみはここで9歳で死ぬ。1911(明治44)年の秋だった。
だから、きみは留寿都村に行ったのではなかった。が、「やむなく手放した娘への思いは、この地で一層激しく、その母の心情が雨情の詩に凝縮した」と、村は「赤い靴の里」であることを誇る。
♪ いまでは 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろ
それは詩人の感性による希望にみちた幻想でもあったろうか。
静岡県清水市の日本平に「赤い靴母子像」が立ったのは86年。少女の前に着物姿の母親がしゃがむ。一見ほほえましい姿だが、2人は追われるように故郷を出たのだった。薄幸の少女と母親の再会を、せめても記念像に、という祈るような思いが伝わってくる。
東京・麻布十番商店街にある石畳の広場「パティオ十番」の一角には「きみちゃん」の像が立つ。ピンとはねた三つ編みが愛らしい。「赤い靴はいてた女の子は今、この街に眠っています」とある。孤児院は近くの十番稲荷神社付近にあった。きみちゃんの生誕百年にあたる昨年夏には、清水市恒例の灯ろう祭りに、麻布十番商店街の人たちも出向き、記念の灯ろうを流した。「世界のすべての子供たちに幸せを」と。
そして、「横浜のはとば」を見渡せる山下公園には、海を見ながら手を組んで触る「赤い靴はいてた女の子」像。
♪ 赤い靴 見るたび かんがえる
異人さんに あうたび かんがえる
雪国に、山頂に、都心に、港に…。それぞれの少女像に寄せる地元の人たちの思いは、熱い。麻布十番の「きみちゃん」の足元には募金箱が置かれ、毎年ユニセフなどに寄付している。留寿都村の時報は「赤い靴」で、公例のトイレの壁にも歌詞や譜面がデザインされていた。山下公園に近いJR関内駅前の歩道の敷石には、タイルに描かれた1足の赤い靴が、点々と続く。
「童謡の謎」シリーズを出版した合田道人さんは、「赤い靴」の女の子が実在していたことに驚き、感激した。そしてさらに、童謡のなぞを追った。「童謡には、詩人たちのメッセージが潜んでいる」。合田さんの確信である。その秘められた思いを読み解くことで、新しい景色が見えてくる、と。
合田さんの徴の旅は続く。 (文/柴田勝章)
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